登山家 田部井淳子(たべいじゅんこ)さん まとめ
田部井淳子さんは知ってのとおり、女性初エベレストの頂に登頂した人
36才でエベレスト女性初登頂、52才で7大大陸最高峰登頂成功されているこの偉大な女性のことを、韓国のニュース中央日報では
「世界で最も強い女性」
と紹介しています(これ見たとき鳥肌が立ちました)
(参考:中央日報:https://s.japanese.joins.com/JArticle/180709?sectcode=420&servcode=400)
(▼1985年の田部井淳子さん)
(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Junko_Tabei.jpg)
(▼当時の朝日新聞の紙面はこちら)
https://www.asahicom.jp/images16/fbox/edit5/201610/22shimen.jpg
このとき登ったのは南東稜ルートで、ここは現在一般的に商業登山で使われているルート
こんな風に聞くとたいしたことないのでは?・・と思っていまいますが、いまでこそ一般の人も鍛えればたどり着ける場所です、でも田部井さんが登った1975年の装備、知識では「国家の威信をかけた大登山隊や、世界の一流登山家だけの領域」だとされています
(参考:https://ryusekiexpeditions.com/everest2020tibet/)
エベレストに田部井さんが登る前は、アンナプルナⅢ峰(7,577m)を女子だけで登っています アンナプルナはエベレストに登るための準備なのかなと思いますがそうではないようです
まずアンナプルナに登ってみて、その後女子だけで行ける山を消去法で探したら、たまたまエベレストだった・・・という感じ 意外ですよね
(参考:https://www.eic.or.jp/library/challenger/031/)
(▼福島県三春町にある田部井淳子さん生誕地の石碑)
==田部井淳子▼目次==
- 登山家 田部井淳子(たべいじゅんこ)さん まとめ
- 田部井さんの身長とか体重とか
- 淳子さんの職業って・・
- 当時 淳子さんが入っていた山岳会
- 田部井さんの名言まとめ
- 淳子さんのブランド「Junko Tabei」
- 田部井 淳子さんのガンの話
- 日本人女性第2登 難波康子さん
- 田部井淳子さんとボクの関係
- 田部井淳子さんの息子さんのハナシ
- 現在、進也さんは何をやっているの?
- 田部井淳子さんの娘さんとは
- 田部井さんの夫、政伸さん
田部井さんの身長とか体重とか
韓国のニュース中央日報で田部井さんは「75歳、身長152cm、体重50㎏」と答えていることから、エベレストに登っていた36才のころもそう変わらない小柄な体型だったと想像できます
(参考:中央日報:https://s.japanese.joins.com/JArticle/180709?sectcode=420&servcode=400)
エベレストのような寒いところでは、カラダが大きい方が体温を維持するには有利(氷河期のナウマンゾウとか)で、小柄なカラダは不利にしかならないと言われますが、抜群の高所順応能力のため(参考:https://www.orbis.co.jp/archives/detail/1385?adid=mega_archives_pc)か、ヒマラヤのアンナプルナなどでは少人数のアタック隊に選ばれています、エベレストでは13人の中で女性唯一のアタック隊に選ばれるくらいでした
高所の登山とは面白いもので、登山が上手いか上手くないかもありますが、一番は「適応できるか、できないか」が重要です
最近ちょっと有名な服部文祥さんのK2アタックのときも、上手いか上手くないかではなく、「高所順応能力」が高い服部さんが選ばれました
とにかく高所では常に自分の普段通りのチカラを出せる人が強いということがわかります
ちなみにボクは高山病になりやすい体質、とてもうらやましいです・・・
淳子さんの職業って・・
淳子さんの職業は、大学卒業してすぐに就職した「日本物理学会ジャーナル編集部」です
(参考:現在の日本物理学会ジャーナル https://www.jps.or.jp/books/gakkaishi/2021/12/76-12.php)
まったく山とはかけ離れている職業ですが、逆に「山のためにお金をもらうところ」と割り切って仕事をしていたようで、17時になったらダッシュで登山の会合に行ったりしていたみたいです
子供が生まれてエベレストに登る準備をするころに、10年勤めた日本物理学会ジャーナルを退職、エベレストに向けてのスポンサー集めや準備へすすみます
(参考:https://www.j-n.co.jp/kyouiku/link/michi/55/no55.html)
エベレストに登ったあとは、田部井さんメインのツアーを開催したり、エッセイを書いたりと大忙し
その後に猪苗代町の沼尻という安達太良山の麓の温泉地に「沼尻高原ロッジ」を経営、なぜか秘密のロッジで公(おおやけ)にはしていなかったそうで、始めた時期とかは不明です
2016年に淳子さんが他界したのちは一度閉鎖、その後は芦ノ牧温泉 大川荘が買取り2019年に再開、田部井さんの雰囲気が伝わるように元のカタチをそのままにしていますが、残念ながらそこに田部井さんはいません
(参考:http://www.ryoko-net.co.jp/?p=67444)
(現在の沼尻高原ロッジのHPはこちら https://www.numajiri-lodge.com/)
当時 淳子さんが入っていた山岳会
淳子さんと夫の政伸さんは結婚しても違う山岳会にそのまま所属していました
そう聞くとちょっと変に感じますが、自分がそのシチュエーションの場合でも、やっぱり違う山岳会のままにしていたかもしれません
その方が交友も広くなるし、取り決めが厳しい山岳会でなければ夫婦で登山するのもありでしょうから、なんら問題がないですね
政伸さんは「本田技研」に勤めていて、そちらの山岳会へ、淳子さんは1963年に「龍鳳登高会」という岩登りが主で海外にも出かける本格的な山岳会に所属、その後1969年に「女子登攀クラブ」をつくります
(https://www.j-n.co.jp/kyouiku/link/michi/55/no55.html)
龍鳳登高会(りょうほうとうこうかい)は今でも活動していて、結成50年にもなるということ(昭和40年6月創立)
(参考:https://rywhow.blog.fc2.com/)
ただ気になるのは2019年の5月くらいからブログの更新が止まっている様子で、都岳連の情報を見てみると、2019年は29人いた会員が最新の会員数は18人まで減っているようです
(参考:https://www.togakuren.com/g-members/t181/)
なんとか頑張ってほしいですね
「女子登攀クラブ」は・・・・残念ながら現在ではありません、ちょっと残念
田部井さんの名言まとめ
淳子さんのボク的名言集まとめです
- 「階段を見たら、ラッキーって思え。」
- 「意志は貴い。意志こそ力だ」
- 「病気になっても、病人にはなりたくない」、「あー、面白かった。やるだけのことはやったぞ」
- 「希望をかなえてあげるのが親の務めなんじゃないか」
- 「あせらず待とうよ」
- 「一回の山登りで三回ぐらい楽しむことができました」
(参考 https://ishibashi-cl.jp/column/%E5%8F%94%E6%AF%8D%E3%80%80%E7%94%B0%E9%83%A8%E4%BA%95%E6%B7%B3%E5%AD%90%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89)
淳子さんのお兄さんの子供、甥の石橋さんのブログから拝借しました
ちょっと面白い言葉ですが、常にトレーニングを念頭に置いていた淳子さんならではの言葉
階段トレーニングは時間がない人のための天から差し伸べられた階段(Stairway to Heaven)だと思いたいです
(参考 https://www.kodama-mirai.org/blog/523/)
これはエベレストに登頂したとき、淳子さんが実感し心に刻んだ言葉
登山で困ったことが起こってもそれを限りある環境での解決が必要です
常に前向きに考え原因を探り解決し乗り越える、「やろう」とする意志がなにより大切だと淳子さんは言っています
(参考 https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20170615-OYTET50021/)
この2つの言葉は、淳子さんが病気になってからの言葉で、2番目の「あー、面白かった~」は淳子さんの直接の言葉ではなく、夫 政伸さんの想像の言葉
「病気になっても~」はガンにはなったけど「意志のチカラ」でこんなの治してやる!・・みたいな雰囲気が伝わり、「あー、面白かった~」という政伸さんの想像の言葉は、常に前向きで全力投球をしていた淳子さんの生き方そのものを表現した言葉で、外したくなかった言葉です
(参考:http://www.tokyo-jinken.or.jp/publication/tj_15_feature1.html)
娘の教子さんが「地元の中学に進学したくない!でも別の中学だったら行きたい・・」と言ったときに、淳子さんが悩んで悩んで、そして最後に行き着いた考え方がこの言葉です このころ教子さんは田部井淳子さんの娘と言われるのがイヤでとてもツラかった時期でした 子を持つ親ならば分かってあげたい心情です
(参考:https://www.shiruporuto.jp/public/document/container/kataru/024_junko_tabei.html)
こちらのインタビューが書いてあるのは日本銀行の情報サイト
この「あせらず待とうよ」は登山など自然を相手にするアクティビティではとても重要なファクターだと思います この言葉が淳子さんから出たのは、山で悪天候に捕まったとき
ここで下界のこと(仕事とかお金のこととか)を考えて動いてしまい、遭難するケースはとても多いです
「あせらず待とうよ」というのは簡単なようでなかなか実践できないことですが、山に登り、自然を相手にするならば、「しがらみは下界に全て置いてくるくらいの気構えが必要だよ」と淳子さんが言っているんだと思います
(参考:https://www.j-n.co.jp/kyouiku/link/michi/55/no55.html)
これは恩師にもアドバイスいただいた言葉
淳子さんと同年代の恩師なので、その時代では有名な言葉なのかもしれません
意味は、1度目、登るようなイメージで登山計画を立てる、計画に沿って山に登ってみる(2度目)、3度目は計画通りに行かなかったことを検証しながら報告書を書く
これで3度登ったことになり、次に生かせる知識が定着する・・・ということになります
今の登山を始めた人はヤマレコやヤマップなどからGPSデータだけを拾って、それを頼りに登って終わりという人がいますが、できれば3度登る気持ちで「山の1コースを丹念にまとめてみる」という楽しみ方もやってみると、その山、コースへの愛着が大きくなると思います
あげればキリがないくらい多くの言葉がありますが、これらがボクの特に感銘を受けた言葉です
調べるとたくさんの言葉があります、皆さんもいろいろ淳子さんの言葉を探すと、迷いの雲が晴れるような言葉が見つかるかも知れません
淳子さんのブランド「Junko Tabei」
淳子さんが生前愛したウェア会社「アンジェリカ」
ここのオリジナルブランド「Junko Tabei」は淳子さんの思いが詰まったオリジナルブランドです
「山で使う高機能ウェアを街でも着たい」という淳子さんのこだわりが随所に現れていて、高機能だけどオシャレなアイテムがたくさんあります
(▼有限会社 アンジェリカ)
メンズアイテムもあるのでごらんください
田部井 淳子さんのガンの話
田部井淳子さんの死因はガンです(2012年に腹膜のガン、2014年に脳の腫瘍、2016年にお亡くなりになっています)
あまり楽しい話ではありませんが、個人的にこの「ガン」という病気と関わることが多く、そして淳子さんがこの病気だったことを聞いて、とにかく他人事ではなかったです
お亡くなりになる2016年には東日本大震災で被災した高校生と富士山に登っていますが、このとき肺にたまった「水」を抜いて登って7合目までいきました
(参考:https://www2.nhk.or.jp/archives/search/special/detail/?d=akaisan178)
「水を抜いた」と自然に紹介されていますが、その水は淳子さんの「血」なんです
(参考:https://www.haigan-tomoni.jp/know/diagnosis/inspection/cell05.html)
カラダでガン細胞が増加、それが影響し、細胞同士のつなぎが弱くなり、その隙間から血の成分がもれたものや浸透圧の関係で染み出てくるのがよくいわれる「水」といわれるもの
最後は一気につなぎが弱くなった細胞が崩壊し、カラダの中で出血多量になり死に至ることもあります
そのような状態で、すでにカラダはボロボロで、でも、それでも山に行く、どれだけ前に進みたかったのか・・
ボクが夫、息子、娘、家族だったら・・・・泣きながらその一生懸命に生きる姿を目に焼き付けようとします、そして目をつぶればすぐに思い出せるように、カラダの奥の奥にその姿を刻み付けると思います
この2016年の淳子さんが登った富士登山について、どのエピソードを見ても、淳子さんから痛みやツラさが感じられる文章はみつかりません、ほんとに「世界で最も強い女性」だと思いました
そして常に前向きに、そして悪いことでもメリットと考えるその淳子さんの最後は、たぶん「あー、おもしろかった」と言って眠りについたはず 本当にお疲れ様でした 合掌
(参考:http://www.tokyo-jinken.or.jp/publication/tj_15_feature1.html)
(※「あーおもしろかった」というボクの想像の言葉は、夫 政伸さんの言葉とかぶりますが、田部井淳子さんのことをいろいろ調べ、その気持ち、心情、見ていたものを感じて自然に出てきたボクの淳子さんの想像の言葉です 政伸さんの言葉を見つける前に感じた言葉で、ボクが感じた淳子さんが間違っていなかったという証明になったと思い、うれしかったです)
日本人女性第2登 難波康子さん
ちなみにエベレスト女性第2登というと日本では「難波康子(旧姓 田中)」さんが有名
ただ実際世界での女性第2登はチベット族女性で「パンドゥ」さんという女性です
(参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%99%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%88)
1975年の5月16日に田部井さんが登頂で、その11日後の5月27日にパンドゥさんが登頂、かなりの僅差(きんさ)
日本で有名な難波康子さんは日本人女性で2番目の登頂者で世界では626人目、世界の女性では36番目ということ
残念ながらエベレスト下山中に遭難死されています
(参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A3%E6%B3%A2%E5%BA%B7%E5%AD%90)
(▼難波康子さんはこちら)
(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1b/Yasuko_Namba_Mt._Everest_May_1996.jpg/330px-Yasuko_Namba_Mt._Everest_May_1996.jpg)
(https://en.wikipedia.org/wiki/Yasuko_Namba)
その後 難波康子さんの遺体は1999年6月にニュージーランド隊に協力をもらい、収容されたようです
田部井さんの成功と合わせてみると、ちょうどエベレスト登山の光と影のように対照的な出来事のようにみえます ご冥福をお祈りいたします
田部井淳子さんとボクの関係
田部井さんとボクは直接の関係は全くありません
お恥ずかしい話、実は登山を始めるまで「田部井淳子さん」のことは全く知らないくらいでした
知りはじめは、ほとんどの人と同じで、アメリカで出された本「The Book of Gutsy Women」(アメリカの政治家ヒラリー・クリントン氏が娘のチェルシー・クリントンと共著)のエピソードに「田部井さん」のことが書かれていたくらいからでした 2019年のことです
(参考:https://www.asahi.com/articles/ASNCZ4Q79NC7UHVA001.html)
福島出身ということで、ボクの先輩方にも聞いたところ、それほど珍しい様子はなく何度か直接お会いしていることでした そしてそれを知ったのはここ最近で、聞くと田部井さんは活動的で常に笑顔が絶えない女性だったそうです
そこから息子の進也さんがロッジを継いだということで、どこにあるかと聞いたところ、すぐではないにしろ近くの沼尻温泉だということ ここはよく温泉に行くところでそれもびっくり
そんなこともあり田部井淳子さんと一気に距離が縮まったような感覚に襲われました
田部井さんの生き方は常に前向き、積極的、他人への気遣いを忘れない、これはボクの近くの知り合いにも似たような人がいるので、より親近感が増しています
登山を始めたのが遅かったので言っても仕方がないですが、やっぱり直接お会いしたかったですね・・
田部井淳子さんの息子さんのハナシ
田部井さんの息子さん(田部井進也さん)は最近の最近まで母、淳子さんを良くいっていませんでしたが、72才のガン発生のときに仲直りしたとか
(▼息子さんの田部井進也さんのプロフィール)
72歳で癌性腹膜炎を発症し、余命わずかと宣告された。すると30を過ぎても悪態をついていた息子が、メールで今までの態度を詫びたという。
(https://www.orbis.co.jp/archives/detail/1385?adid=mega_archives_pc)
・・・・第三者のボクがいうのもなんですが、とりあえず詫びが遅い(と思う)
周辺の誰も進也さんにその悪態が「かっこ悪いこと」だと教えなかったのか・・・それがとても残念
でも悪態をついたままお別れにならなかったのはよかった・・・
ボクも人の親ですが、子供に嫌われるのはしょうがない、でも嫌われたままお別れは寂しすぎます
ただ田部井さんの大きさを考えると確かにその進也さんがついていた「悪態」についてもわかる
どうしても親に反抗したい(反抗というか独り立ち)気持ちが出てくるのに、その反抗したい人は誰もが認める「田部井淳子さん」
どんなに反抗しても周囲の人は淳子さんのことは認めるが、進也さんのことは淳子さんを通しての「息子」としか見てくれない、誰も認めてくれない
確かにそんな状況にボクもなったら、もがいて苦しむだろうな・・同情は隠せない
親が大きいだけに、その壁と超えて自分のスタンスを確立できなかった苦悩は大変だったと思う
親の立場から考えると、これも普通の反抗期対策といっしょで、親はじっとガマンし、クライミングのように「こじる」ような軌道修正をしていくしかないですね・・理想はね・・
子にとっても親にとっても長い試練だったと思いますが、とにかく最後には仲直りできてよかった・・・とおもいました
現在、進也さんは何をやっているの?
2012年から「株式会社タベイプランニング」というアウトドアコンサルティングをする会社を設立しています
(参考:https://www.tabeiplanning.com/company.html)
その前はタベイ企画という会社を設立し、その中で沼尻高原ロッジの管理もしていました
そんな会社を経営しながら、淳子さんの意思を継ぐべく「東北の高校生の富士登山」を「一般社団法人田部井淳子基金」の理事として毎年開催(コロナ過をのぞく)し、まずは「めざせ1000人」を目標として活動中
高校生レベルのお小遣い程度の参加費でやっているので、通年金欠みたいです
また富士登山が始まったら「クラウドファインディング」が始まると思いますので、もしよかったら寄付お願いいたします
(▼以前のクラウドファインディングの募集要項です)
参加した子供たちの感想を見ると涙が流れてきます、淳子さんがはじめ、進也さんが継いだ活動はしっかり実を結んでいると実感しました
震災やコロナもそうですが、多感な子供たちへの影響は計り知れないと思います
進也さんも言っているとおり、こんなときこそカッコいい大人がしっかり子供たちの道しるべになってあげなくては・・・そんなことをつくづく感じた「東北の高校生の富士登山」の活動内容でした
田部井淳子さんの娘さんとは
娘さんは長女の「教子さん」
(参考:https://www.jiji.com/jc/d4?p=tbj122&d=d4_bbb)
写真は少なく、時事通信社の1975年6月8日、東京・羽田空港でのチョモランマ登頂後帰国出迎えシーンくらいしか写真はありません
幼いときの写真を見る限りではどちらかというと淳子さん似のような・・1972年に出産されているので、この時はまだ3歳でした
娘さんのエピソードはそれほど多くありませんが、紹介させていただきます
雪崩で死を覚悟したときに・・
1972年出産直後のエベレスト遠征、このときに大規模な雪崩に遭遇しています
淳子さんはその雪崩で死を覚悟したとき、「娘の姿浮かんだ」と言っています
(参考:https://www.asahi.com/topics/word/%E7%94%B0%E9%83%A8%E4%BA%95%E6%B7%B3%E5%AD%90.html)
ボクも何回か死を覚悟するような登山をしたことがありますが、確かに子供の顔が浮かびます
そして、子供のために、必ず、是が非でも、絶対生き残ろうとします
いまでもぶつぶつと子供の名前を唱えながら難関を突破した記憶は鮮明です
仕事前に子供を預けに・・
淳子さんは娘さんを出産されたあと、仕事をやめエベレストに集中するようになります
そのころ旦那さんも本田技研をやめているわけではないので、スポンサーの折衝や登山の会合に行くときには長女を預ける必要があります
幸い淳子さんお姉さんが近くにいたので、そちらのお世話になっていたようです
「会合やスポンサーとの折衝など、出かける機会が増えた。そのたびに幼い娘を背負って、姉の家に預けに行く。」
(https://www.orbis.co.jp/archives/detail/1385?adid=mega_archives_pc)
たぶん預けにいくことも、1~2歳くらいの乳飲み子なので準備がとても大変だったはず
今なら哺乳瓶セットや消毒セット、着替えとおむつを準備しなければならないです
このころはまだ紙オムツが主流ではなかったと思うので、布オムツですよね
帰ってからの洗濯もいまのような最新の洗濯機ではないので、時間もかかるし乾燥機もない時代
どれだけ大変だったか想像が難しいです
母親に激しく反抗
母が有名で認められていればいるほど、子は反抗、もしくは離れていきます
娘の教子さんもそうだったようで、「いい子を演じるのがとても嫌だった」と言っています
(参考:https://www.orbis.co.jp/archives/detail/1385?adid=mega_archives_pc)
これは普通とはかけ離れた人生を送る人だけでなく、普通の人も通らなければいけない関門で、親にとっても子にとっても試練、こんなときは、ムリをしてもいいことはありません
子供が行きたい方向を見守ってあげること、これしか親にはできることはないです(軌道修正のための見えないおせっかいは必要ですが)
どちらにせよ、子も親もずっといっしょにいるわけにはいきません、生まれるときは母といっしょでも死ぬときは常にひとり
子を早く認めて、早く仲直りをするのが一番いいのかもしれません
田部井さんの夫、政伸さん
田部井さんの夫「政伸さん」は本田技研に勤めていてそこの山岳部に所属していました
淳子さんは別の山岳会に所属していて、結婚してからもお互いの山岳会は続けていました
(▼お付き合い当時の2人の写真はこちら)
https://data.smart-flash.jp/wp-content/uploads/2021/05/15202025/may16_2.jpg
淳子さんのエベレスト登山には政伸さんの協力なしではできなかったと思います
家事や子育ての分担があってこそ、淳子さんはエベレストに向かうことができる、淳子さんばかりにスポットライトがあたりますが、政伸さんあってのスポットだと言えます
政伸さんの言葉を探していくと、やっぱり淳子さんの病気が進行してからあとの言葉がとても深い感銘を受けます
「どの山にいってもかみさんを思い出す」(参考:https://news.1242.com/article/191142)というのは、2019年のインタビューを受けたときの政伸さんの言葉
特に印象が深い山は、病気のときのリハビリやエベレストに向けてトレーニングを積んだ埼玉県の「日和田山」だとか
「妻に尽くした、なんて思いません。同じ時間を刻むことができて、『ありがとう』の気持ちでいっぱいです」(参考:https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20170615-OYTET50021/)この言葉は読売新聞のヨミドクターでの政伸さんの言葉
これは2017年の6月、淳子さんがいなくなって約半年後のインタビューです
淳子さんのエピソードを見ると「夫の支え」というものがとても重要だったと感じますが、政伸さんのインタビューをいろいろ見ていると、支えではなく淳子さんと政伸さんは一緒に登っていたんだな・・という印象が一番しっくりくるような気がします
そんな内容の濃い人生を2人でおくってきたためか、片方の淳子さんがこの世を去ってもなかなか心もカラダも認めるには時間がかかるようです
「亡くなってから5年たちますが、いまだに彼女がいなくなったことに納得していないんです。」(参考:https://smart-flash.jp/lifemoney/142274/1)
2021年、このとき政伸さんは、まだ淳子さんの骨を納骨されていないようです、5年も立ちますが、まだ心の整理が難しいとつぶやいているのが印象的でした、やっぱり離れたくないですよね・・・・
(▼月命日で進也さんと山の登る政伸さん)
https://news.1242.com/wp-content/uploads/2019/12/82cde3fa9ab7b21b7a5c31781eed5ea7.jpg
政伸さんは淳子さんのブログを引き継いで日記を書いています
無料の会員登録は必要ですが、もし良かったらごらんください
(▼田部井政伸のブログ)