「ニルマル・プルジャ(Nirmal Purja)」・・もうこの名を「誰だ?」というヤツはいない
愛称「ニムズ」「ニムズダイ(ニムズの兄貴)」と呼ばれるこの世界最強の登山家は、2021年1月16日現地時間午後5時、不可能だと思われていた「K2冬季登頂」を世界で初、「やってしまったのだ」
(▼ニルマル・プルジャ 登頂後のインタビュー)
そして、ボクはそんな世紀の偉人の関係記事を読み漁り、その結果「ニルマル・プルジャ」氏の「裏の計画(たくらみ)」に気づいてしまった・・・
・・・・とまあ、そういえば聞こえはいいが、その「裏の計画」はボクの推測で、そしてナショナルジオグラフィック誌にもちょこっとだけ書いてある。 そして登山家ならそういう欲求は必ずあることだし、それも淡い状況証拠しかないのであくまで「ボクの想像」になる。
ただ登山家の根本的な欲求を考えると「当たらずといえど遠からじ」じゃないかな・・・
ここからは状況証拠しか見つけられなかった残念なボクの、下種(げす)の勘ぐりとしてみてほしい
==▼目次==
ニルマル・プルジャ 冬季K2初登頂
ボクは「ニルマル・プルジャ」のどこから始まったのか・・・
ボクが彼を知ったときは、「冬季K2登頂」という偉業を達成したときだった
その登頂はプルジャ単独ではなく、ネパール人10人一緒の登頂だ。 しかもそのとき登頂を目指しているほかの2つのチームを加えて1つにまとめ、山頂で10名横一列にならんでの登頂だ。 そしてそれをまとめたのが「ニルマル プルジャ」だ
ボクがプルジャを知ったときは、まさにこの時。 世界はこの偉業を称賛し、プルジャは一躍時の人になっていたのを覚えている
ボクもこの人間離れした(ほんと人じゃない)偉業をただ純粋に「スゴ過ぎや・・」と思った
なぜこれが「スゴ過ぎ」なのか。 それは冬季K2は「火星の平均気温と同じマイナス60℃」、そして風は家が倒壊する「風速50m」で、かつ酸素が半分しかない。 プルジャはそんな「地獄の山」を登頂してしまったからだ(ナショジオより)
登るというか、単純にこんなところに「いるだけでおかしい」
このときは純粋に「ただ ただ、恐れ入る」しかなかった
ニルマル・プルジャの疑問|彼はなぜ1番に登頂しなかったのか
その後いろいろプルジャ氏の活動を調べた
冬季K2の以前には8000m14座完登の記録にも挑戦していた。 ここで今までの最高記録2900日の記録から一気に189日に短縮した「桁違いの怪物ぶり」など、その活躍ぶりを知ってさらに天を仰ぐ気持ちになった
その後ナショナルジオグラフィック誌(ナショジオ)に特集が組まれていたのをみた
ナショジオ記事の視点はプルジャ氏だけではなく、3パーティのうちの一つ「ミンマ・G・シェルパ」の視点も一緒に書かれていたので、多面的にいろいろなことがわかった
頂上近くには、プルジャのチームのひとり「ミンマ・テンジ・シェルパ」が一番先に着き、そこで皆を待って 10人横一列になり頂上にたどりついたということだった。
このとき、ふと違和感のような疑問がでてきた
その疑問は、「なぜプルジャが1番最初に登頂しなかったんだろう」
プルジャ氏の能力を考えると、他の仲間を率いて自分だけ1番最初に登頂することは可能じゃないか思った。 これの回答はすぐ見つかった。 ナショジオを丹念にみると、1番じゃなかった理由は 「無酸素で登ったから」
「おい、スゲエ、無酸素だぜ・・・」
確かにほかの仲間は酸素ボンベを使って登り、プルジャ氏だけ無酸素だとしたら、さすがの彼と言えど1番はムリだ。 ナショジオでも「プルジャ氏は足を1歩だすごとに呼吸を何回もしなければならない」と書いてある。 これでは酸素があるほかの仲間と比べると進むスピードは雲泥の差だ
でもプルジャ氏の性格を考えると、「最強の冬季K2」を登頂したトロフィーに「無酸素」と「チームで初登頂」は手に入るが、裏のトロフィー「頂上に1番に到達」がないのはイヤなんじゃないかと思った。
このときはそれほど重要には思っていなかったが、ふとそういう感覚が自然とでてきたのを覚えている
ここで確認したい
登山をしている人に対して、登山をあまり知らない人はよく「無償の征服者」と例えることがあるが、それは違う
どんなに「無償の・・」と言っても、誰しも「自分が納得するトロフィー」はほしいのだ
プルジャ氏も同様のはず。 「チームの冬季K2初登頂」に加える報酬は「無酸素」というトロフィーも良いが、裏の報酬として「登頂No1」のトロフィーもかなり重要じゃないのか・・・ほしくなかったのか・・・それほど「無酸素」に固執している理由は何なのか・・・
ニルマル・プルジャはなぜ写真の中央にいないのか
もう一つ気になること。
それはナショナルジオグラフィック誌に掲載されている登頂下山後に撮影されたキャンプ地での登頂者全員の集合写真。
「プルジャだけサングラスをしている・・・なぜ?」
「プルジャが写真の真ん中にいない・・・なぜだ・・・」
(▼ナショジオに掲載されている集合写真)
(▼一人サングラスがプルジャ)
それまで調べたプルジャ氏の性格や成し遂げた成果を考えると 写真の真ん中で誰が見ても完璧な「さわやかな笑顔」でいると思っていた
これを見てボクはすぐさまこう思った。
「登頂者たちの向い側にいるであろうスタッフたちも、写真の仲間に入れたかったのだ」
サングラスをすることで、スタッフがサングラスに映り、写真におさまるように気を利かした・・・・と。
そしてその集合写真のセンターに写っているのは先頭に立ってフィックスロープ(固定ロープ)を頂上まで導き、頂上直下に一番にたどりつきみんなが来るのを待った「ミンマ・テンジ・シェルパ」
最も隊に貢献した彼を写真で一番前においている、なんと男気がある・・・・・とそのときは感じた
ただそれにしてもなんとなく解せない・・・それでもプルジャが真ん中にいないのは解せないのだ・・・・
(※あとで確認したが、ナショジオで焦点をあてていたのはもう一つのチームリーダー「ミンマ・ギャルジェ・シェルパ(通称ミンマ・G)。 そのためプルジャは一歩引いた写真をとったのではないか・・・とも思った。 その理由はほかの写真には中央にいる写真やサングラスをしていない写真があったからだ。 結果的にこれはボクの考えすぎだったのではないか思われる)
ニルマル・プルジャだけがなぜ無酸素なのか
プルジャ氏ひとりだけ「無酸素」というのがとにかく気にかかった
このチームを実質的に率いたのは、「ニルマル・プルジャ」だ(実際はこのシーズンのK2には4パーティの計画があったが、これらの中の3パーティをまとめたのがプルジャ)(参考https://www.climbing-net.com/news/k2winter_210117/)
プルジャのチームは6名(ミンマ・デイビッド・シェルパ、ペム・チリ・シェルパ、ダワ・テンバ・シェルパ、ミンマ・テンジ・シェルパ、ゲルジェ・シェルパ、ニルマル・プルジャ)
ミンマ・Gのチームは3名(キル・ペンバ、ダワ・テンジン・シェルパ、ミンマ・ギャルジェ・シェルパ)
セブンサミットトレックス社からは最年少ソナ・シェルパが1名
計10名が冬季K2登頂者たちだ
(ナショジオ、クライマーズネットより)
そんな強者が10名もいて「無酸素」はプルジャ氏のみ
たしかにプルジャの能力がとにかく別格なのはわかるがどうなのだろうか
あとで彼は自分だけ「無酸素」を実行した理由を「この計画の批判を封じるために」といっている。 これだけ素晴らしい計画にも批判はあるもので、それをかわすために無酸素をしたのだという・・・(ナショジオより)
うーん、それだけが理由なのか・・解せない
嘘というかそれも理由の一つだと思うが、そんな理由だけで「無酸素」を実行したりしない。 現にチームリーダーの一人、ミンマ・G氏も「足の感覚がなくなってきた」と酸素を吸っている。世界最強レベルのシェルパでも死を感じるような登山である。そこから考えると、無酸素にはなんとなく裏があるような気がした
確かにプルジャはリーダーシップと男気が有り余っているくらいあるのはわかる。 そういうエピソードはちょっと探せばすぐでてくるくらいありふれていて、誰もがプルジャの英雄的性格は鳥肌が立つくらいわかる。 ただもし「無酸素登山」が失敗したらほかの隊員にも迷惑がかかる。 そのくらいの理由でこのチームでは初登頂ができないかもしれない。 よほどの理由がなければ自分だけ「無酸素」はできないはずだ
登山家の原動力は「自己顕示」。綺麗ごとはない
ここで再度確認したい。 登山をやっているヤツは、どんなにきれいごとを言っても「登山は自己顕示の場」で「オレってスゲエだろ・・」が登るための原動力になっているはず
そして、その「スゲエ」が他人にもわかるような「トロフィー」がほしいはずだ
普通の人ならば、その「トロフィー」というのは、登頂したときの写真だったり、記念の石だったりする
プルジャがほしいトロフィーは「冬季初登頂」と「無酸素」
ナショジオやほかの記事を見るとプルジャが登頂計画を進めているとき、同時に登頂計画を進めていたのがプルジャ達を含めて「4パーティ」あった
どのパーティも実力屈指のパーティでプルジャ達より先に登頂しそうな勢いだったろう。 かつその中の1つはパーティといったが、「ソロ」で挑んでいるようだった
このソロの登山家が登頂してしまったら、「冬季世界初」と「ソロ」のトロフィーがその登山家に入ってしまう
ここまで確認したときに、ふとボクの中で「ニルマルの企み」がなんとなく分かったような気がした
そして、ナショジオの集合写真感じた違和感の正体は、プルジャ氏がすべての企みが成功し、下山後興奮冷めやらないときにそれを悟られないように目を隠すためではなかったのか・・・下種(げす)なボクはこう考えてしまったのだ
ニルマル・プルジャの「たくらみ(裏計画)はこうだ」
ボクが考えるニルマルの冬季K2初登頂の裏計画はこうだ
- 助けてほしいときに救助もしてくれない登山界が、自分たちの登山を批判するな
- それほど批判をするなら、世界で一番難しい登山を無酸素でやってやる
- だが無酸素をするとほかの登山隊に負ける。でも無酸素は譲れない・・それでは他のチームも仲間にしてしまおう
これがボクの想像したプルジャの裏計画のすべてだ
詳細は下記で述べる
※(ここからはボクの想像も入っているのであしからず)
裏(うら)計画を立てた理由
これはナショナルジオグラフィックの記事に「批判を封じるために無酸素をした」と書いてある。 無酸素の理由は小さな記事でこれだけしか書いてなかったが、プルジャにはかなり大きな理由だったと思われる。
プルジャは2019年10月に8000m14座登頂を最速で完結させてしまったが、登山界からは批判もあった。 それは酸素ボンベを多用し、他人が張ったロープを(たぶん)無断で使ってしまったことなどを、「正当な登山家のすることではない」という厳しい批判だ。(ナショナルジオグラフィック誌より)
これはボクからみると、なにも実績のない「ポッと出てきた」ニルマル・プルジャが圧倒的能力で登山界の常識を覆してきたことに対する拒否反応の一つにように思えるが、プルジャもこれを
「しゃらくさい」
と思ったはずだ
プルジャらはその8000m14座登頂の途中に、大きなレスキューを2度おこなっている。
そこでプルジャたちは救助の要請があったときほとんど反射的に救助の行動をおこして救助を行った。(>>「アンナプルナでの救助」) それに対し「登山界にいる人たち」はプルジャらが現場で要救助者を確保し、ベースキャンプにフォローを要請したのにもかかわらず、誰も救助に来てくれなかった。(>>「カンチェンジュンガでの救助」)
その「カンチェンジュンガ」の2度目の救助で、プルジャらは(登山界を代表するような)そのベースキャンプにいる人間の「仲間を切り捨てるような雰囲気」に「吐き気を覚えた」と言っている。(>>「カンチェンジュンガベースキャンプ地での出来事」)
そこに「登山界」からの「批判」・・・
プルジャはこう思ったはずだ
「ごちゃごちゃとうるさい。 一番助けがほしいときに誰も助けにも行かないやつらが、細かいことをとやかくいうな」
「そこまでいうなら世界で一番難しい登山を、酸素ボンベなしでやればいいんだろう? やってやるよ」
これが「冬季K2初登頂」を「無酸素」でやらなければいけない動機だと思う
こう考えるとウソと思うかもしれないが、たぶん初登頂よりプルジャには「無酸素」のほうが大事だったのかもしれない。
追記:後にプルジャが語っていたが、世界はプルジャ達の冬季K2初登頂を「世間はこの『K2制覇』を偉業と思うかもしれないが、初登頂の称号は正当な手段で登った者のためにとっておかなければいけない」」という言葉で牽制していたようだ。簡単にいうと「これだけの偉業は酸素を吸って登頂なんてかっこ悪い、そんなのやめろよ」という意味だ。これが「無酸素で登る」本当の意味だった。プルジャはこれに対して、「僕にとって何より大事だったのは、どうやって世界に向けて決着をつけるかでした。ネパールのクライマーが最強であることを事実によって語らせるんです」。と言っている。プルジャにとって「無酸素」は「何より大事」だったということがよくわかる。(出典:「GQ」より)
裏(うら)計画発動
ここからは「プルジャ」氏の心のうちを書いてみた
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世界で一番難しい登山「冬季K2初登」を「無酸素」でやってやる
自分ならできる、余裕だ
ただ専門的な技術や知識が自分には足りないから一人ではムリだ、助けがいる
よし、5名のネパール人の強力な助っ人を仲間に入れた
これで「チームで初登頂」と「無酸素」のトロフィーが手に入る
よし・・・計画実行だ・・・
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もう少しでたどり着くのに、ほかにも3パーティ登頂を考えているようだ。 自分が「無酸素」をすると行動が遅くなり負けるかもしれない。 でも無酸素をやめるのはイヤだ
無酸素は譲れない。 そして登頂も「1番」じゃないのも譲れない。 だがオレが無酸素で登ると1番になれない・・・・
そうだな・・・有力なパーティも自分のチームに取り込む必要があるな・・・。 ちょうど有力なチームも全員ネパール人だ。 ネパールの名のもとに皆で一緒に登頂しようといえば「チーム初登頂」と「無酸素」が手にはいるんじゃないか・・・・よし、ほかのパーティに連絡をしよう・・・・
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========プルジャ氏の心の内はここまで===============
ここからはナショナルジオグラフィック誌に書いてあるとおり。
お酒が強いプルジャがムリヤリ(に見える)新年のお祝いにミンマ・Gらを誘い、
「今回の冬季K2はこの日登頂を果たしたみんなの目標であり、大きく言えば8000m級山の登頂記録がないネパール人の悲願だ」
「今回のチャレンジをすることで、外国人ガイドが多い自国ヒマラヤのネパール人ガイドの評判を良くしたい」
という理論でプルジャは「いっしょに行動しよう」と持ちかけ、そこで2パーティ9名が一緒になることになり、のちに1人追加になり、10名で冬季K2発登頂をすることになる
プルジャの言葉を丹念に調べてみると、プルジャが体力や先天的な能力だけの人物ではなく、用意周到で失敗したときのための準備と保険を幾重にもかけておく性格が見て取れる
プルジャはナショジオの記事でこうも言っている
「必ず次善策を用意しておけ。軍隊ではそう教わるんですが、私はさらにその次の策もしつこく用意しておくんです。」
ああ、策士 ニルマル・プルジャ。 誰も彼の心の奥底まではわからない・・・・・
ここまで話したことはあくまでボクの想像だ
それが事実だとしても、別に10名の「冬季K2初登頂」やプルジャの「冬季K2無酸素初登頂」はゆるがない
ネパールの山では、山頂に到達し、無事下山するのは「山が決めること」だという。 プルジャはその山の神に愛され、そしてその全ての「たくらみ」が成功したのだ。 本当に恐れ入った
・・・・そしてそれがばれたとしても、プルジャは爽やかな笑みを浮かべながらこういうに違いない
「それが何か?」「楽しかったろ?」
ニルマル・プルジャに栄光あれ
ニルマル・プルジャ氏のWikipedia的記録まとめ
プルジャ氏の活動のまとめを時系列にしてみた
- プルジャの生誕からグルカ兵になるまでの時系列
- プルジャが登山に目覚めてから軍退役までの時系列
- プルジャの「ネパール14座最速登頂計画(プロジェクト・ポッシブル)」の時系列
- プルジャの「冬季K2初登頂」の時系列
※記事のほとんどは「Red Bull(レッドブル)」のサイトから抜粋している。 「レッドブル」はプルジャ氏のスポンサーとしてキャップなどにロゴが施されていて、記事もより詳しく書いてある。
(レッドブルのプルジャのサイト)
プルジャの生誕からグルカ兵になるまでの時系列
ここでは幼少の時期からグルカ兵、英国海兵隊の特殊部隊に配属されるまでの経緯のまとめ
プルジャ氏は自分のことを「運がいい」とか「貧しい村出身だから」と謙遜(けんそん)していることが多いが、それを鵜呑みにしてはいけない。 自伝的記録をみると、父も兄も英国精鋭のグルカ兵のエリートで、すでに成績も優秀、闘争心も旺盛(おうせい)な子供だったようだ
すでに幼少から恵まれたカラダ、知能をもっていたように感じる
それに加えて向上心、競争心、努力を惜しまないガマン強さもあり、若いころからすでに大きなことを成し遂げそうな雰囲気がある。
- ニムズはネパール・ミャグディ郡の小さな村で生まれ、チトワンで少年時代を過ごした。
学校では成績優秀だった。- 彼は父や兄たちのようにグルカ兵(英国陸軍所属のネパール人兵士)になることを夢見ていた。
- 2003年に18歳でグルカ兵になった彼はその夢を叶えた。
- 2009年にSBSの精鋭隊員として配属。
(https://news.militaryblog.jp/web/Former-Gurkhan-Ex-SBS-Nirmal-Purja/scaled-13-Himalayan-peaks-in-158-days.html)- SBSは英国海兵隊の特殊部隊で、機密偵察・急襲を専門としている。SAS(特殊空挺部隊)と並び、SBSも英国最高レベルの精鋭部隊だ。
(一部以外「レッドブル」より引用https://www.redbull.com/jp-ja/project-possible-nirmal-purja-climbing-worlds-highest-peaks-record)
プルジャが登山に目覚めてから軍退役までの時系列
ここまではプルジャ氏が登山に目覚めてからイギリス軍をやめるまでの出来事
笑ってしまうのが、登山に目覚めてその日のうちにいっしょにいる登山ガイドから草の上でアイゼンの使い方を習って、すぐさまロブチェ東峰(標高6,119m)の登頂をしてしまうエピソード
嘘のような話で、これだけで普通の人ではないということがよくわかる。 すでにカラダが高所登山に適したものになっていると思われる。 これが先天的なものか後天的なものかは不明だが、たぶんその両方だと思われる。
その後エベレストを自分の裏山のように何度も登頂を繰り返していて、すでに人じゃない雰囲気はこの記録を見ただけでわかる。
- ニムズが登山に目覚めたのは2012年、エベレスト・ベースキャンプへの遠征時だった。
「トレイルも楽しかったが、何よりその景色に心を奪われた。山頂に立ち、絶景を独り占めする感覚を知ってしまったんだ」- ニムズはガイドを説得して本格的な登山訓練(草の上でのクランポンの使用法)を受けると、すぐにそのガイドを同伴してロブチェ東峰(標高6,119m)の登頂に成功した。彼が制した最初の山だった。
- 2014年、カトマンズを起点にしてアクリマタイズ(高地順応)なしでダウラギリに挑み、14日で登頂に成功した。
- 高地登山初挑戦となったダウラギリで彼は素性を隠そうとした。目立たないように行動し、登山用具をショーツやサンダルのようなカジュアルな服と交換した。その姿は、周囲が何者なのかと怪しんだほど物知らずに見えた。(https://www.redbull.com/jp-ja/nims-purja-interview-dreams-mission-project-possible)
- (2014年)同年、ニムズは特殊山岳部隊に配属され、教官として極寒冷地戦を指揮する立場になる
- (2014年から)数年後のエベレスト初挑戦時も、そのアプローチは維持されていた。
2週間ほどの兵役休暇を得たニムズは、銀行を訪れて車のローンが必要だと嘘をついて登山資金を調達した。また、シーズン後半にベースキャンプに到着すると、気候順応に充てる時間がほとんどなかったことから、そこにいた全員にロンドンで救護兵だったと嘯(うそぶ)いた。そして登頂後も写真を1枚も投稿せず、その事実をシェアしなかった。(https://www.redbull.com/jp-ja/nims-purja-interview-dreams-mission-project-possible)- 2016年、特殊部隊を離れる直前の休職期間中のエベレストでチームからはぐれて救助を必要としていた女性登山家に遭遇したのをきっかけに彼は考えを改めた。
この時、酸素ボンベを携行していたニムズは1時間45分でレスキュー活動を完了させた。酸素ボンベを携行していなかったら、彼女ひとりをそこに残すことはできなかったはずなので結果的に2人とも命を落としていただろうとニムズは考えている。- エベレストでのインド人登山家の救助や、グルカ兵によるエベレスト登頂の指導教官として辣腕を振るったこと、また幾つかのギネス記録を塗り替えたことなど、高山登頂の専門家としての実績が評価され、2016年には「大英帝国勲章団(MBE: Member of the British Empire by HM Queen Elizabeth II)」が叙勲されている。
(https://news.militaryblog.jp/web/Former-Gurkhan-Ex-SBS-Nirmal-Purja/scaled-13-Himalayan-peaks-in-158-days.html)- エベレスト遠征は悪天候で一層困難になったが、ニムズの勇敢なリーダーシップによりグルカ兵部隊は2017年5月15日にエベレスト初登頂を達成した。
- そして2018年には上等兵で軍務を終えている。
(https://news.militaryblog.jp/web/Former-Gurkhan-Ex-SBS-Nirmal-Purja/scaled-13-Himalayan-peaks-in-158-days.html)(一部以外「レッドブル」より引用:https://www.redbull.com/jp-ja/project-possible-nirmal-purja-climbing-worlds-highest-peaks-record)
プルジャの「ネパール14座最速登頂計画(プロジェクト・ポッシブル)」の時系列
いままで軍にいたことから素性を隠して経験を積んでいたが、ここから表舞台に出てくることになる。
しかし登山経験がそれほどないにも関わらず最初から「8000m14座登頂計画」から始まっている。 これまでのプルジャの活躍を見ると個人的にはイケると思うが、スポンサーはそうはいかない。 プルジャ氏は登山よりスポンサー集めに苦労したようだった
ただ、それも3つのフェーズのうちの最初のフェーズの期間のみ。 第1フェーズを最速でクリアすると、第2フェーズからは大きなスポンサーがついてきた。 さすがニムズ
またここでは想定外の救助活動もしている。 ここで士気が落ちるような経験をした。それはプルジャが救助中トランシーバーで助けを呼んだが誰もこないのだ。 この現状に心底落胆しているようだった。 だが、一般人から見れば、高所で天候も怪しいし要救助者も助かるかどうかわからない条件では、「普通の人は高所ではウサイン・ボルトのように救助には行けないのだ」
この高度でウサイン・ボルトのように走れる人間はプルジャのチームだけだと思った
- ニムズはこのプロジェクトに5万5千ポンド(約770万円)の私財を注ぎ込み、特殊部隊時代の友人数名からいくばくかの援助を得て、さらにGoFundMe(クラウドファンディング)プロジェクトも立ち上げた。
- Bremont Project Possible(プロジェクト・ポッシブル)フェーズ1スタート アンナプルナ8,091m ネパール 2019年4月23日登頂
- 2019年4月23日午後2時(現地時間)、ネパール人登山家ニルマル・プルジャはネパール8,000m峰8座のひとつで、世界で最も登頂が難しいとされているアンナプルナ登頂に成功した。
- アンナプルナは、1950年にフランス人登山家モーリス・エルゾーグとルイ・ラシュナルが初登頂を記録して以来、191人の登山家が登頂に成功しているが、一方で61人が落命しており、死亡率3割強という極めて高い数字を残している
- (アンナプルナから)ベースキャンプへ戻った。ベースキャンプでは、マレーシア人アマチュア登山家のチン・ウイキンが36時間以上も行方不明になっていることが話題になっていた。
- (行方不明のことがあるので静かに)午前3時半頃の就寝前に貴重な酒を少しだけ飲んでアンナプルナ登頂成功を祝った。
- 午前6時、ヘリコプターがベースキャンプに着陸すると、飛び降りてきたひとりのシェルパがニムズのテントに駆け込み、標高7,500m地点の山腹でチンが手を振っているのを見たと伝えてきた。彼はまだ生きていたのだ。
- (レスキューに向かった)ニムズと彼が最も信頼を置くパートナーたち(ミンマ・シェルパ、ゲスマン・タマン、ギャルゼン・シェルパ)で構成されたレスキュー隊は第3キャンプ手前でヘリから降りた。
- ニムズの(アンナプルナ)登頂アテンプト当日は、降下ポイントからチンのポイントまで18時間かかったが、この日はわずか4時間だった。今年36歳を迎えたニムズは次のように振り返る。「登山家版ウサイン・ボルトのように走った」
- ニムズ率いるレスキュー隊はチンを発見した。
- チンに意識はあったが、深刻な低体温症と凍傷を併発していたため、翌日午前6時までにチンは第3キャンプまで搬送された。そしてそのまま彼の妻が待つカトマンズの病院を経由して、シンガポールへ搬送された。
- 水と食糧、酸素ボンベがないまま標高7,500m地点で40時間近く遭難していた48歳のチンは、残念ながら2019年5月2日に搬送先のシンガポールの病院で息を引き取った。
- プロジェクトの日程がタイトだったため、このレスキュー活動への参加はニムズのロジスティックスに問題をもたらした。アンナプルナでの滞在延長は、次の登頂目標だったダウラギリ(標高8,167m)のベストタイミングを逃し、予定より1週間長く待たなければならなくなることを意味していた。
- それでもニムズはダウラギリ登頂を決行し、5月12日午後6時に登頂に成功したが、天候は最悪だった。
- (ダウラギリの)「風速は60〜70km/hもあった。登頂最適なコンディションを完全に逃していたが、他の山の登頂スケジュールを予定通りに進めるためには強行する必要があった」
- 「フェーズ1」ダウラギリ8,167mネパール 2019年5月12日登頂
- チームは夜を徹して(ダウラギリから)下山し、午前8時にベースキャンプへ戻った。そして荷物をまとめて午後3時にはカトマンズ行きのヘリに搭乗し、午後5時半にカトマンズで友人たちとダウラギリ登頂を祝ったあと午後6時に空港へ戻り、午後11時に3座目のカンチェンジュンガ(標高8,586m)のベースキャンプに到着した。実に目まぐるしいスケジュールだ。
- ニムズがProject Possibleの3番目に選んだ世界3位の標高を誇るカンチェンジュンガでは、キャンプからキャンプへ移動しながら山頂を目指すのが常識だ。しかし、スケジュールがタイトだったため、ニムズはベースキャンプから直接山頂を目指さなければならなかった。
- ダウラギリ登頂後、間髪入れずにカンチェンジュンガ登頂に挑んだニムズと彼のチームは極度の睡眠不足に陥っており、立ち止まればその瞬間に眠ってしまうほどだった。
「危険だった。私たちはレース形式にすることでこの睡眠不足を克服した。眠れなくなるまでスピードアップしたんだ」とニムズは語る。- 「フェーズ1」カンチェンジュンガ8,586mネパール2019年5月15日登頂
- 結果、チームはわずか22時間30分でカンチェンジュンガ登頂を達成した。
- カンチェンジュンガから下山していたニムズのチームが標高8,450m地点で酸素ボンベの尽きたシェルパとインド人登山家を発見した時だった。そしてさらにそこから100m下りた先では同じパーティの別の登山家が高地脳浮腫を発症していた。
- Project Possibleのクルーは自分たちの酸素ボンベをすべて彼らに譲った。
- 「酸素ボンベなしで登頂していれば、身体がアクリマタイズされて高地環境に馴化する。だがこのような高所でいきなり酸素切れに陥れば、9割9分の人にとって自殺行為になる。身体が慣れていないからだ」
- しかし、Project Possibleのクルーに選択の余地はなかった。10時間以上救助無線を発信したあと、ニムズは誰も来ないことを悟った。
- 「当時、第4キャンプには40人以上がいたはずだが、ソロの登山家だろうがアルピニストだろうが、救助に来てくれた人はいなかった」
- この頃になるとゲスマンが凍傷を起こしかけていたため、ニムズは彼をキャンプへ帰還させた。救助された登山家のひとりは衛星電話で妻と連絡を取っていた。
- 「その登山家は意識があったし、会話もできていた。第4キャンプからたった30分の位置だった。だが、酸素ボンベが尽きてしまうと15分もしないうちに息を引き取った。私たちの腕の中で亡くなったんだ」
- 最後にはニムズとミンマにも高地脳浮腫の症状が出始めた。また、Project Possibleクルーの超人的な努力にもかかわらず、インド人登山家2人がカンチェンジュンガから生きて下山することはなかった。
- ニムズは第4キャンプを早々に立ち去った。
- 「ああいうトラブルに関わるのを避けようとするのは理解できるが、自分の中で消化できなかった。誰も助けに来なかったという事実に吐き気を覚えた」「あのキャンプの連中とは話したくなかった。私は直接ベースキャンプに下り、すぐにヘリを呼んで立ち去った。とにかくひとりになりたかった」ニムズは沈黙したあと次のように続ける。「私たちは無酸素でレスキュー活動を試みたが、たった15分で彼は亡くなってしまった。・・・・『なぜ酸素ボンベを使って登山するのか』という質問には心底うんざりしている。答えは “山ではこういうアクシデントが起きるから” だ。だから酸素ボンベは私にとって重要なんだ」
- カンチェンジュンガ登頂を終えたニムズは、それから48時間以内にエベレスト(標高8,848m)、ローツェ(標高8,516m)、マカルー(標高8,481m)を連続制覇し、その途中でインターネットで話題となったエベレストの行列写真も撮影した。
- 過去何回もエベレストに登頂してきたニムズは最速登頂記録更新を狙っていたが、結局、7時間半も “渋滞に引っかかる” ことになった。
- 「フェーズ1」エベレスト 8,848m ネパール 2019年5月22日登頂
- 「フェーズ1」ローツェ 8,516m ネパール 2019年5月22日登頂
- 「フェーズ1」マカルー 8,481m ネパール 2019年5月24日登頂
- エベレスト登頂後、ニムズはローツェに登頂し、ナムチェバザールで2日間パーティを楽しみ、マカルーに登頂するというスケジュールをたった5日でこなした。「パーティがなければ、3日でローツェとマカルーの登頂を終えていただろう」とニムズは語る。
- 終わってみれば、ニムズは途中で想定外のレスキュー活動を4回も行いながらネパール8,000m峰6座をわずか31日で制覇し、Project Possibleの第1フェーズを終えた。
- Project Possibleを支援するファンディングはスタート当初から厳しい状況が続いていた。第1フェーズ開始前、このプロジェクトの実現は到底不可能と思われていた。
- ブランドや企業からの援助を一切得られなかったニムズは、毎朝午前4時に起床し、Instagramの作業をしたあと、午前7時の電車でロンドンへ向かって3〜4カ所で打ち合わせをこなし、午後7時に帰宅してから大量のメールを書くという生活を4ヶ月も続けた。(ていた)
- Project Possible第2フェーズを前に、ニムズは英国の航空スペック高級時計メーカーBremontとOsprey Europeをタイトルスポンサーとして獲得した。
- 資金を確保したニムズはプロジェクト名を『Bremont Project Possible』と改めて第2フェーズ(23日間)をスタートさせた。23日間という日程の短さに驚くかもしれないが、すでに6座で最速登頂記録を更新していた彼には現実的な数字だった。
- 「フェーズ2」 ナンガ・パルバット 8,126m パキスタン 2019年7月3日登頂
- ニムズは第2フェーズのナンガ・パルバットでメスナーに直接会う機会を得た。ニムズはこの邂逅を次のように振り返る。
「メスナー氏は私の目をまっすぐに見つめ、『君にならできる』と言ってくれた。彼は私の登山を見たことはなかったはずだが、面と向かってそう言ってくれた」
(ラインホルト・メスナー氏:初めての8000m14座登頂者)- 「フェーズ2」 ガッシャーブルムⅠ峰 8,010m パキスタン 2019年7月15日登頂
- ガッシャーブルムⅠ峰で命を落としてもおかしくない状況に陥り、登山家の90%がエクスペディションを断念するほど酷いコンディションになったK2では自分の能力を初めて疑うことにもなった
- 「フェーズ2」 ガッシャーブルムⅡ峰 8,035m パキスタン 2019年7月18日登頂
- 「フェーズ2」 K2 8,611m パキスタン 2019年7月24日登頂
- 「フェーズ2」 ブロード・ピーク 8,051m パキスタン 2019年7月26日登頂
- 次の第3フェーズは9月後半から10月後半が予定されていた。ニムズはチョ・オユー(標高8,201m)とマナスル(8,156m)を数日で登頂する
- 「フェーズ3」 チョ・オユー 8,201m チベット 2019年9月23日登頂
- 「フェーズ3」 マナスル 8,156m ネパール 2019年9月27日登頂
- 最後のシシャパンマへ向かった。チベットに位置するシシャパンマは1年を通じて入山規制されているため登頂許可の取得で問題が発生したが、最終的に中国政府が譲歩した。
- 「フェーズ3」 シシャパンマ 8,013m チベット 2019年10月29日登頂
ネパール人登山家のニルマル・プルジャが8,000m峰14座を189日間(6カ月と6日)で完全制覇(いままでの最高記録 2013年に韓国のキム・チャンホ(金昌浩)が樹立した7年10カ月6日)
- Bremont Project Possibleが完結した今、ニムズはすでに次の目標を見据えている。彼はネパールのアマ・ダブラム(標高6,812m)へ直行し、Elite Himalayan Adventuresで山岳ガイドとして働く計画を立てている。
- 「生計を立てないといけないからね(笑)」と語る彼は、重い病を患っている母親が通う病院があるカトマンズに両親が住む家を建てたいと考えている(半身不随の父親はチトワンで暮らしている)。「両親の老い先は長くはないから、一緒に暮らせるようにしてやりたいんだ」とニムズは語る
(記録のソース:Reddit https://www.reddit.com/r/alpinism/comments/ci1e37/nims_dai_summits_broad_peak_just_a_few_days_after/)
(一部以外「レッドブル」より引用:https://www.redbull.com/jp-ja/project-possible-nirmal-purja-climbing-worlds-highest-peaks-record)
プルジャの「冬季K2初登頂」の時系列
- 2019年「プルジャ」ともう一つのチームリーダー「ミンマ・G」が邂逅
- 2020年12月18日 ベースキャンプ地(4,960m)到達
- 2020年12月21日 前進ベースキャンプ地(5,200m)到達
- 2020年12月21日 第1キャンプ地(6,100m)到達
- 2020年12月29日 第2キャンプ-1地(6,600m)到達
- 2020年12月31日 ベースキャンプ地に戻る
- 2020年12月31日 新年のお祝いでプルジャ隊、ミンマ・G隊が9人のネパール人のみのチームをつくる
- 2021年1月1日~1月12日 風が吹き荒れ、第2キャンプ-1が破壊される
- 2021年1月13日 セブンサミットトレックス社のソナ・シェルパも荷揚げに加わり、ネパール隊は10名のチームになる
- 2021年1月13日 第2キャンプ-2地(7,050m)到達
- 2021年1月14日 第3キャンプ地(7,200m)到達
- 2021年1月15日 第4キャンプ地(7,600m)到達
- 2021年1月15日 一度休息のため第3キャンプ地に戻る
- 2021年1月16日 真夜中過ぎ第3キャンプ地を出発 ここでプルジャ以外が始めて酸素ボンベを使う
- 2021年1月16日現地時間午後5時、プルジャ率いるチームはこのチャレンジをクリアし、K2冬季登頂に成功した世界初の登山隊となった。
(ナショナルジオグラフィック2022年2月号)
(https://www.redbull.com/jp-ja/nirmal-purja-mountaineering-interview)
ニルマル・プルジャ氏のウィキペディアはこちら
ニルマル・プルジャ氏 現在の活動
プルジャ氏は現在「エリートエクスペディションズ」という登山ガイドの会社で活躍している。
▼「エリートエクスペディションズ」の公式サイト
そのほかプルジャ氏は9つの会社を経営しているようだが、なかなか順風満帆な船出とはいっていないようだ。カルチャーメディアサイト「GQ」では下記のような災難を紹介している。
- 郊外の住宅街カパンにある「エリート・エクスペディションズ」の事務所で火事が起きたと知らされた。スタッフ3人が亡くなった
- 新規事業にスカイダイビングの学校がある。~中略~ スペインでプロのスカイダイバー、ディーン・ワルドと訓練降下中、2人の装具が絡まってしまった。ニムスの後を追って降下していたワルドが、上空1000m超でニムスのパラシュートに当たって絡まったのだ。ニムスはパラシュートを切り離し、予備のパラシュートで無事に着陸した。だが、ワルドは地面に激突して命を落とした。
- 「エリート・エクスペディションズ」の客のひとりがロブチェで死んだという知らせが届いた。
どれも「死」にまつわる大事件だ。ただプルジャはひるまない。これらを乗り越えて旅を続けなくては・・・とインタビューに応えている。軍人として数多くの死を見てきたプルジャ氏の、死に対する感覚は自分には分からないが、悲しいまでの強い意気込みが、このインタビューではよくわかった。
ニルマル・プルジャ氏の 「Instagram」
ここではボクが気に入っているプルジャ氏のインスタを紹介したい
(▼ニルマル・プルジャ氏のインスタはこちら)
いろいろなプルジャ氏の画像はあるが、やっぱり正面から見据えているプルジャ氏がいい
(▼ニルマル・プルジャ氏)
これは画像ではないが、冬季K2にみなでならんで登頂している動画シーン
これを見て「おいおい」と思ってしまった
登山をしている人ならわかると思うが、全身全霊で登った山頂でこんなことは普通はできない。 ボクならとにかく写真を1、2枚とって帰りたいと思う。 なぜなら山頂は気温も風も半端なく、帰りの過酷さを考えると、一刻も早く立ち去りたくなるのが普通だと思う。
こんなエンタメのようなほんわか雰囲気がだせるのは、この人たちが普通ではなく、「特に別だから」だと思った。
(▼冬季K2に10人並んで登頂したシーン)
やんちゃな雰囲気のプルジャ氏
インスタグラムには軍にいたころの氏の画像はいくつかあったが、登山の雰囲気がまるで感じられないこの写真が特にお気に入り
(まだ軍にいたころのプルジャ氏)